誰もが聞いたことのある結婚式song
「Get along together~愛を贈りたいから~」で知られるミュージシャン
山根康広さん。
ファンからは「山根さん」もしくは「やんちゃん」とよく呼ばれています。
お生まれ
1966年8月16日 大阪府生まれ
血液型は不明だそうですが、性格からして「Aやろ!」とご本人はおっしゃってます。
誰ですか、wikipediaにAB型って書いたの…
幼稚園時代
幼稚園のときに、すごく可愛かった先生がいて
ピアノ教室をしていたその先生に会いたい、という流れで
5歳のときにピアノを習い始めたそうです。
お母さま(通称オカン)が先生から
「何か音楽の才能があるような気がしますので楽器を与えてみられては」
と言われ、ピアノを買ってもらったそうです。
小学校時代
ご自身のことはキカイダーだと信じ、
健康診断の日は「ヤバイ!見つかる!」とすごく焦っていたそうです。
秘密基地を作ることが大好きで、ドアノブなどを拾ってきては収集し、建設材料にしていたそうです。
12歳ごろから作詞・作曲を始められたそうですが、この頃は、好きなように勝手にひいていただけ、だそうです。
入院中のクラスメイトに、みんなでメッセージを録音して後で聞き返し「この声俺?」と驚かれたそうです。自分の声を人に聞かせるのが恥ずかしかったそうです。
中学校時代
友人から「文化祭でバンドをやるから、キーボードをしてくれ」と言われ、コピーバンドを始められたそうです。
その時に聞いた「DEEP PURPLE」の曲を聴いて感銘を受け、どっぷりハードロックにはまっていったそうです。
高校時代
バンドでは、ドラムもされていたようです。
たまたまボーカルがいなかったときに、「曲を書くやつが歌え」と言われ、しぶしぶ歌うように。
「うまいうまい!」とのせられ、暫定的に歌い始めていたのがボーカルとしての始まり…という感じだそうです。
だけど、ボーカルが一番嫌だったそうです。
「歌を歌うのはタイヘンだし、人前でしゃべらないといけないし。さすがに今は慣れましたけど。」
とおっしゃっていますが、当時の気持ちを忘れないように、なのか、3rdアルバムの10曲目「STAGE」を聴くと、その様子が分かります。
バンド「HEART BREAKER」を結成され
大阪キャンディホールにてライブの後、1年あまりで活動停止。
大学時代
ロン毛の大学時代は、シンセサイザーも、サイドギターも少しされていたようです。
(楽器なんでも使えるんですね…スゴイ!)
ハードロックの高い高音が、地声が低いためキレイに通らず
ハードロックから、シンプルなロックへの変換を決心され、20歳ごろ、長い髪をバッサリ切られたそうです。
大学1回生の7月、BE-FREEの母体となるバンド「ELZA」を結成。
8月にはレコーディングを開始。
年明け2月にはデモテープリリース、
大学2回生の4月に大阪BANANA HALLでライブ。
その後メンバーチェンジを経て
大学3回生の2月(1988)、BE-FREE誕生。
3月「BE-FREE Collection PartⅠ」をリリース。(カセットテープ200本、完売)
デビューコンサート(600人動員)
大学4回生の5月、大阪BANANA HALLでワンマンライブ。
7月 船上クルージングライブを1週間敢行。
8月・11月・12月 MUSE HALL am Hallでワンマンライブ、BANANA HALLのイベント出演。
1月1日(1989) プリンスレコード(自主制作レーベル)からCD「BE-FREE Collection PartⅡ」をリリース。
1月27日 大阪BANANA HALLでCD発売記念ライブ。
3月 大阪近鉄小劇場でワンマンライブ。


私の大阪に住んでいる親戚が「BE-FREE Collection PartⅡ」のCDを持っていて、私が山根さんのファンだということを知って1995年にダビングしてくれたので、よく聴いていました。完成度が高く、大学生が作るレベルではないと思います。
会社員時代
1989年
6月、7月、8月 各ライブハウスにてライブ・イベント出演。
10月 TV番組「Baby Rock Festival」イベントライブ。
11月 湊川女子短大にて学園祭ライブ。
大阪MODA HALLでワンマンライブ。
12月 TV番組「オールナイト、眠らずにROCK BAND RUSH ’89」出演
↑こんなバンド時代の細かい情報どこから入手したの…?と思われたと思いますが
日本クラウンから一般発売されたDVD(ROUTE816武道館ライブ)のエンディングに出てまして、そこからの一部抜粋です。
amazonで買えますので詳しく知りたい方はそちらへ…。
メンバーのベースが抜けることになり、
「他のメンバーを入れるなら」ということで
1991年2月 BE-FREEは活動停止となったそうです。
しかし、当時のファンの方から
「小さな力ですが、ずっと応援しているので頑張ってください」
という手紙が届き、
山根さんは約1年間の静寂の後、ソロで活動を始めることを決心されたそうです。
1992年3月 ソロ活動開始
5月 「BACK TO THE TIME」レコーディング開始
デビュー
1993年1月 会社員を続けられながら、26歳で日本クラウンからデビューされます。デビューと言っても、レコード会社から「名前を貸してもいい」というスタイルの「ほぼ自主制作CD」でのデビューだったそうです。ご友人に撮影してもらい、自費でレコーディングされたそうです。
デビューシングルは
1993年1月21日の「Get Along Together」。
ご友人の結婚式のために作った曲です。
メジャーレーベルの名を借り、インディーズ盤をリリースしたとはいえ、タイアップがあるわけもなかった。シングルもレコード店に数枚しか置かれていない彼の活動は、大きな制限を強いられるものだった。
メーカーの宣伝費もまったくなく、自分が動くしかなかった。 テレビやFMに出演することもできない。訪問すれば一度は流してくれる有線放送を回る日が続いた。ライブイベントは、客席の付いたステージではなく、全てがストリート・ライブだった。それでも、目の前を通り過ぎていく人々に心を込めて歌う。たったひとりでもいい。立ち止まってくれれば…この思いが伝われば…。
平日は仕事、週末はストリート・ライブという二足の草鞋の生活が続く。
Quote:過去ツアーパンフレット
「マスコミ媒体に乗らないから、有線で流してもらうしかなかった」
有線放送を訪問すると1回は流してくれるから、ということで
よく有線にも足を運んだ、と以前おっしゃっていました。
有線放送から火が付いたこの曲は、じわじわとチャートを上っていき、東京のテレビにも出演され始めます。
勤めていた会社に電話がかかってくるようになり、
迷惑をかけるということで退職。
同年9月6日に「Get along together~愛を贈りたいから~」(ニューバージョン)を発売。
これが、ミリオンヒットになり、
日本レコード大賞 最優秀新人賞
日本有線大賞 最優秀新人賞
全日本有線放送大賞(大阪)最優秀新人賞
ゴールデン・アロー賞 音楽部門新人賞
日本ゴールドディスク大賞 ニュー・アーティスト賞ベスト5
など、様々な賞を受賞されます。
翌年、紅白歌合戦(2014年)にも出演されます。
1994年 2ndシングル「あの時のように/永遠の約束」は、両A面タイアップ
1994年 3rdシングル「Yellを君に」は、アルバムからのシングルカット(リスナーからの強い要望)
1995年 4thシングル「Everyone」は、歌う山根さんの姿が梅田ロフトや渋谷109を飾りました。
カップリングのALWAYSは神戸を舞台にした曲。歌詞に出てくる「ヴィーナスブリッジ」「落書き」は
山根さんのファンの聖地になってしまい
ヴィーナスブリッジには落書きが増えました。(私が1999年に見たとき、多くは山根さんへの応援メッセージでした)
恐らく、それを見た人々が、真似して色々落書きしたのかな。なぜか、南京錠も流行り…。増えすぎたので、撤去することになったそうです。
ヴィーナスブリッジがTVで取り上げられた際に、1大ムーブメントを起こした山根さんが取材されました。
※ちなみに歌詞の中に南京錠という言葉はありません
1995年 5thシングル「
恋という名の翼」は、CMソングで、ご自身も出演されていました。
恐らく、ファン以外の人が知ってる山根さんって、この29歳のときの「恋という名の翼」までかもしれません。
その後はテレビに出られることは少なくなったのですが
ずっとずっと、素敵な曲を書き続けていらっしゃいます。
公式youtubeチャンネル
1996年 30歳の誕生日は日本武道館でライブ
2006年 40歳の誕生日は神戸ワールド記念ホールでライブ
2014年 デビュー20周年を記念して、大阪フェスティバルホールでライブ
と、大きなハコでもライブを開催されてきました。
現在は、真夏の恒例お祭りライブとして、お盆明けのお誕生日前後に毎年「FIRE BALL」というライブを開催されています。zeppなんばが会場になることが多いみたいです。もう、このライブとにかく楽しくて!(≧∇≦)3時間全然休まず歌い続ける山根さんはとにかくスゴイ!!
「FIRE BALL」2020年度は中止になりましたが、2021年度は開催されました。
「Get Along Together」のヒットで、バラディアとして世間に認知されていた山根さんですが
ルーツは英米のロックだそうです。
バラディアのイメージを彼に持ってる人は、山根さんの各アルバムを聞いてみたら、
「えっこんな感じの曲も歌うの?」ってなるかもしれませんね。
サウンドプロデュース
2008年、韓国のヴォーカルユニット
sg WANNA BE+のサウンドプロデュースをされ、発売日の
オリコンデイリーチャートで9位だったそうです。

1994年には、郷ひろみさんにサウンドプロデュースをされ、1曲ご提供されています。
他にも楽曲や歌詞のご提供をされているようです。
ラジオ番組
現在は毎週金曜の23時から
FMcocoloにて
このラジオ番組では洋楽の紹介をしてくださるのですが、知識がすごいですね。
私は、洋楽のことは分からないので、ただ山根さんの声が聴きたくて聞いています。
ちょっとおとぼけ?なところや、とても謙虚なところは、昔からずっと変わらないですね。
土曜の朝、子供たちが寝静まった早朝に
ひとりで朝食を摂りながらradikoでSTARTING OVERを聞く時間が大好きです。
山根さんは「Get along togetherの人」
そう言われることが多いようです。
だけど、私にとっては「Get along together(1993)」は山根さんとの出会いの曲で
そのほかの曲の方が、人生に大いに影響しました。
私は学生時代
Good-bye Love Road(1993)で、 こんな風に皆を感動させるストーリーのドラマを作りたい、と夢をもらい
Yellを君に(1994)では、本当に胸を貸してくれてるような感覚になり、失意のどん底にいた時分は繰り返しこの曲をリピート再生し泣きました。
ALWAYSⅡ(1996)でより大きな夢を持つ主人公の二人の愛に感動で涙し、
PRECIOUS 1>100(1998)でキュン死しそうに悶えながら受験勉強をし、
観覧車(1999)はドキドキ初めての彼氏と一緒にCDを買いに行き
on the BACK STREET(1999)を小さな学生アパートで聴きながら夢を支えてもらっていました。
be-ALIVE (2001) ROUTE 66(2001)を聴きながら、あの長いアメリカの道のりを横断されたことに感銘を受けました。
今になって
あんなに「自分ならできる」「夢は叶う」と学生時代にポジティブに考えることができていたのは
いつも前向きで力強い、素直な歌詞の山根さんの曲を聴いていたからかもしれない、、と思うようになりました。
私は10年ちょっとファンを離れていましたが、出産後久しぶりに楽曲を聴いて、「こんなにも自分の体に溶け込んでいたんだな」と今感動しています。
「俺の曲が誰かの人生のかけらにでもなれれば、こんな嬉しいことはないです」
いつも山根さんは謙虚にそう言われますが
私にとっては、かけら?そんなものではありませんでした。
夢をもらい、支えてもらい、
現在も癒され、勇気をもらっています。娘が入院した時は、病室でCLOUD 9(2012)を聴いて励まされました。
この曲は、コンサートライブで聴くと泣いてしまいます…。
(↑この曲は発売日の
オリコンデイリーチャートで8位だったそうです)
震災後、音楽の力でみんなを元気にしたい、というコンセプトから作られたとおっしゃってました。
2011年の南相馬でのご経験からも色々感じられたのでしょうか…
2011年の東日本大震災のあと、
「東北を花火で元気にするプロジェクトLIGHT UP NIPPON」出演の依頼を受けて、「これは行かんと!」と
8月に福島県南相馬市へ行かれて歌を届けたというのは
山根さんのラジオ番組で聴きました(他のアーティストさんはほぼ全員断られたようです)。
他のアーティストが断る中、実際に2011年に現場に行って、皆が知ってるミリオンソングを届けた、という山根さんの行動は、当時の被災地の方々にとって、とても大きな励みになったのでは、と思います。
とっても暖かい人柄…まったく昔からお変わりないんだな…と、
13年ほどのブランクを経て、私は再び山根康広さんの大ファンになりました。
※上記の年表は、1ファンが書いたものですので、もしかしたら事実と違う点があるかもしれません。もし間違えていたらすみません!m(。≧Д≦。)m