be-ALIVE…時代劇のタイアップの思い出から
週末、昔の記事を引っ張り出して読んでいました。
2000年、EMIからデビュー当時に在籍されていたレコード会社に戻られ、
「SIDE BY ME」をリリースされました。
そして21世紀初のシングルが「be-ALIVE」でしたね。
私はEMIにいらっしゃった頃のアルバムのデザインや雰囲気が「いままでと少し違うなー」と思っていました。
それまでは、普段の服で男っぽさや素朴さが前面に出ていた感じがしますが
「OneMoment」「on the BACK STREET」この2枚は何と言いますか…
落ち着いたstylish感というか…
襟付きだったり、特にOneMomentの頃は髪が長めで、衣装の効果もあり?大人の雰囲気というか…
オトナかっこいいなーと思ってました。
21世紀になった頃のbe-ALIVEリリースインタビュー記事(2001)がありました。抜粋して要約です。
「今回の移籍に関しては、特にどうこうという意味はないんですが、まあ、昔の懐かしいスタッフたちともう一度仕事をやってみようという感じですかね。」
「ニューシングルに関しては、サウンドはアメリカンな感じでスカっとしていて、内容的には自分たちが生まれてきたからには必ず何かの意味があって、他の人にはできない何かをみんながそれぞれ持っているということを言いたくて。
まあ、それが夢ってものなのかもしれないし、まだそれが見つかっていない人も、これから先、必ず見つかるだろうし、っていうことをね。
そう言った感じで、人生において、時には失敗することもあるかもしれないし、でもそれを気にしないで生きていこう、みたいなことを伝えたかったんですね。」
アップテンポなアメリカンロックのノリに、ストレートに伝わってくる力強い言葉をちりばめた今回のシングル。世紀も変わり、また新たなスタートという意味が込められているような印象を受ける。
「やっぱり、またここからスタートっていうような気持ちはあります。そういう気持ちとかがある方が、曲をつくるにも入りやすいですし。原点回帰というか、自分が何のために歌っているのか、音楽をやっているのかっていう部分ですね。
やっぱり、そういう自分が考えていることや、言いたいことがないと、それは歌としてなかなか聞いている人たちには伝わらないでしょうしね。
今回はサウンド的にもザックリしていて、ちょっと前まで凝っていたシーケンスの打ち込み系とは違って、荒削りのような気もしますが(笑)。でも、今の自分にとっては、十分それで伝わると思ったんで」
カップリングの「ROUTE66」は、去年の夏アメリカに行って、実際に車でその道を走ってきた体験を、そのまま書いたという。
Quote:昔の情報紙
うんうん、この2曲大好きです…。
be-ALIVEは荒削り?うーん、そうは思わないな…。
時折入ってるピアノの音色とか、凝っていてすごく好きです。
荒削り、とか言われながらも、結局丁寧に時間をかけて作られたと思っています。
Route66もね…なんかね…切なくなります。
ほんとキュンキュンしますね。ドライブ中にかけてたら、ちょっとウルってきます。
be-ALIVEツアーのオープニングだったんだよな…。DVDを見返して、心にグッときます(´;ω;`)
リリースされた当時よりも、今の方が、私はこの2曲に対する愛情は大きいです。
なんでだろう?
年を重ねながら…
命について、とか…
何をすべきか、とか…
これからどう生きていこう、とか…
色々と思慮・潜考したからかもしれません。
あの砂漠ばかりの道のり…
少数の撮影クルーと共に何日もかけて完遂したこのプロジェクト。
どなたがこの企画を持ってきたのかは私は存じ上げません。
だけど…何を感じられたのかな。
果てしなく続いてるこの道に何を求めて
いくつもの夢や涙 すべてを知ってる母なる道よ
広大な大地、見えないゴールに
日々の小さな悩みなんて、取るに足らないことだな、と感じられたのかな。
日を追うごとに、どんどん日焼けしていく山根さん。
その数年前の、
「君のためなら空を飛ぶ羽にもなる」
「君をこのまま離したくない」
と歌われていた
前髪が長く少し色白の貴公子のような外見とはえらく違っていきました。
真っ黒に日焼けして砂漠の中や崖をアクセル全開で飛ばす…
例えるなら
1997年
クラヴァットを巻いた英国ジェントルマン
(I will love you until the last breath leaves my body.とか言ってそうな感じ)
↓
2000年
アメリカンドリームを追う荒削りカウボーイ
(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.とか言ってそうな感じ)
くらいに変化していました。
2002年の就職氷河期…
本当に内定が取れなくて…
4回生の私は、自問自答の毎日でした。
夢への執着が、少しずつ小さくなっていって
内定を取ることの方が重要になってきました。
このまま夢を追うのか
とにかく内定をとるのか
どちらがいいの?
どちらも、終わりが見えませんでした。
就活を始めた頃の2002年4月、
アルバム「STARS.」がリリースされました。
1曲目のメッセージは
大いなる夢を掲げて 信じるままに走り続けよう
いつの日か描いた未来 強く強く願えば叶う
夢を追う私を後押ししてくれる力強い声がそこにありました。
「もう少し学生を続けられないか。考える時間がほしい…そうだ…S先生の母校…」
高校時代に出会った、尊敬する恩師がカリフォルニアの大学を出ていました。
(卒業するときに色紙にサインしていただいて、今も思い出BOXに入れています)
「お前、今死んで後悔はあるか」
と、価値観が少し変わるような話を18歳の夏にしてくれました。
夢をくれた大好きなミュージシャンもRoute66を完走しました。
アメリカってすごい所なの?
先生はどうしてアメリカの大学を出たのだろう?
アメリカに行ったら、何か変わるかな。
答えが出るかな。
そう思いはしたものの
留学をすることには大きなハンデがありました。
(英語がまったく話せない!資金がまったくない!)
4回生の私はそんな「社会に出るのはまだ早い。まだ学生でいたい」という、まったくのピーターパンシンドロームでした。
バイトを辞めて就職活動を始め、親からの仕送り以外の収入がなくなりました。
遠方の会社まで行く交通費、昼食費…
ライブ行けるかな、行けるかな…そう思ってチケットを購入するのが遅くなり
このとき…初めて山根さんのライブで2階席を経験しました。
あぁぁぁ2階席!!
FC会員なのにこんなの初めて!(´Д⊂ヽ
ところが、山根さんは何度も2階席にも目を向けてくださったんですよね。すごく嬉しい思い出です。
「2階~!!!」
「ノッてるかー!」
「Hey!Hey!」
(と2階に指をさしてくださって、びっくりして目をそらしたことを覚えています)
頑張ろう、就職活動。
このお兄さんは、いつも一生懸命で…
私たちに勇気と元気をくれてる…
その4回生の夏に帰省したときに、親に頭を下げて30万円を借りました。
ナイトスクール最後の学費です。バイトを辞めていたので、どうしても捻出できませんでした。
(社会に出てから返しに行きましたが、受け取ってもらえませんでした。)
内定を得たのは卒業の2か月前。
新卒枠ではなく、第二新卒の枠でした。
「君、4月からなら来れるの?」
夢が叶わなかった時のために…と保険で頑張っていたスキルがたまったので、第二新卒枠で採用してもらえました。
社会に出れば結局、残業続きの毎日。
「第二新卒枠だし、早く一人前にならなければ…」
いつしか、夢を諦めていました。
その翌年、24歳の頃が、恐らく最後にライブに行った歳かな、と思います(記憶が曖昧…何かのイベントに行ったのは25歳が最後だった気がする…)。
山根さんが38歳のときですね。
そして2年前…
私が38歳になったときに再会しました。
願っていた職には就けなかった…
だけれど…
あの頃感じていたこと、大きな未来を追っていたこと、
素敵な楽曲を毎日聴き、将来を支えてもらっていたことは
いまもキラキラした記憶となっていて
とてもとても大事にしたい思い出です。
将来、子供たちには
「君たちにしかできないことがある。君たちの明日が待っている」
と伝えたいな。
そうそう、
歌とは全然関係ないんですが、
ROUTE66のVHSの中で、山根さんがコインランドリーを利用される場面がありました。 (このVHSはDVD出ないのかな(´;ω;`))
服をランドリーマシーンにバサッと入れて、その後、ナップサックの中の物を、カメラに見えないようにバサッと入れられていたような気がします(こっちはアンダーウェアでカメラにご配慮されたのかな?)。
Tシャツなどの服は写っていたので見えましたが、それらがきちんと「端まで」たたまれていたので
「あれまあ…男の人なのにきちんとしてはるなぁ…几帳面な方だな…」
と思ったことがあります…
(↑この歌は荒削りとおっしゃいながら、こういうところで素が出てる)
「アンタ!ちゃんとたたんで自分の部屋持っていきや!」
と子供の頃に言われたのだろうか…
♬そんなオカンにー たためと言われ育った
最強オカンのお話また聴きたい🤣