最も心に残ったライブ…

8月14日に放送予定のSTARTIING OVER Y2 MEETS ROCKは、ライブ特集!ってことで

過去のライブの想い出などをリスナーの皆さんから募集されましたね。

オンエアがすごく楽しみです( *´艸`)

皆さんの想い出、とっても聴きたい!

 

 

 

想い出のライブ…私にとって思い入れのあるライブは、うーん…

 

初めて参加したライブ

そして…出戻ってから初めて参加したライブ…だと思います。

 

 

3位…

再会を果たせた2019年7月の西宮ガーデンズ「GUARDIANリリースイベント」ミニライブ…

 

2位…

中学3年生のときに、初めて山根さんのライブに参加した1995年「Born in 66」

山根康広 Born in 66 DVD

 

1位は…

今までの山根さんのライブでも、最も感動した2019年「FIRE BALL 817」

 

3位の西宮ガーデンズ「GUARDIANリリースイベント」ミニライブですが…

 

私は…2003年に就職しサラリーマンになってから、楽曲を聴く回数が減っていき、25歳頃(2005年)にとうとう聴かなくなったような気がします。

 

そして…2018年の8月12日に、阪急電車に乗ってFIRE BALL 2018の「ライブ広告」を見て、山根さんに再会しました。

 

娘の出産後、初めて乗った電車。生後2か月で入院した彼女の、電車デビューの日でした。

 

息子が、梅田の鉄道イベントに興味を示したんです。

それで電車に乗って梅田に向かっているときに、座席の前面で懐かしい山根さんのお顔に再会しました。

 

「あああああああああ山根さんだ!!!!」

 

 

時のいたずらか夏の日の昼下がりに出会った人は

懐かしい面影残す 昔恋した人

そうさあれは13の頃にあなたに恋をした

今ではやけに懐かしく思わずガン見…!

 

 

その日の晩、CDを引っ張り出して1stアルバムから聴き始めると、思い出が溢れてきて眠れなくなってしまい

「山根さんの楽曲が私の青春時代を保存してくれていたんだ…」

と実感しました。

 

 

 

その後、公式webサイトをチェックしましたが

「ライブチケットは完売しました」と出ていて、このFIRE BALL 2018は行けませんでした。

 

 

だけどこのときからラジオ番組STARTING OVER Y2 MEETS ROCKを毎週欠かさず聴くようになり

毎週読まれるリスナーの皆さんの暖かいメッセージに、昔抱いていた山根さんへの想いを思い出していったんです。

 

知らないうちにリリースされていた曲も心に浸透していって、

どんどん昔のようにファンになっていきました。

 

 

翌年…2019年4月、息子が幼稚園に入園。娘も保育園に入園したし、仕事の合間に英語のブログを書いて勉強を再開しよう…と思っていました。

 

この時考えていたのは、勉強サイトです。。

 

若い人向けに、夫の留学・卒業までの道のりや、私のヘナチョコ短期留学経験や、外資系企業での経験や、IELTSスコアアップの参考書のことを書こうかな。

自分と同じような主婦向けに、語学力を出産前まで戻せるのか、幼児2人の育児と仕事の合間にどうやって勉強の時間を確保するか、なんてことを書こうかな。

と思っていたのですが

 

うーん…そんなブログは山ほどあるし…

 

 

それよりも

 

山根さんへの想いを書き記していこうかな…

 

色々記憶に残ってるしネタがつきないな…

 

新しいファンの方が増えてるんだなぁ…

 

私が素晴らしい楽曲にとても励まされたことを新しいファンの方に知ってほしいな…

 

どうしたら山根さんに恩返しできるかなぁ…

 

こっそりひっそりつぶやいていたら叩かれはしないかな…と思い、

 

 

ブログ名なににしよ?

うーん、息子が816だし(兄も816)、

出会えたことも、息子のおかげで再会できたことも運命

destiny…

816…

これでいいや!と

昨年4月に変なブログを始めてしまいました(ご迷惑になってなければいいのですが)。

 

 

そんななか参加した西宮ガーデンズでのミニライブでは、懐かしい「少年」もパフォームされ、

「変わってない!お変わりないんだ!」というのをとても感じ、その後ファンクラブに再入会をしました。

 

当時、娘は1歳。まだまだ風邪に弱く、チケットを取ってもライブに行けないかもしれない…、それがネックでした。でも…

 

「それでもいい、またファンクラブに入ったらライブに行けるチャンスがたくさんあるんだ!」

 

という、山根さんへのつながりを欲している自分がいました。

 

 

30分のミニライブでしたが、昔の感覚が戻ったんだと思います。

若い頃…ステージからもらった、たくさんの勇気…励まし…

それをまた、受け取りたい…

また、山根さんのステージをたくさん観たい…

10年と少しブランクがある私だけど…また参加していいですか…

 

 

ガーデンズで久しぶりに握手していただいたときの緊張感…

私、足がガクガク震えてしまって

「お久しぶりです10年ぶりくらい…」

と言うのが精いっぱいで

「あーほんまに!」とニッコリ笑ってくださっただけなんですが…

何か…ずっとお変わりないんだな…

30分のステージだったけど…また…ずっとこの人のファンでいたい…と思わせてくれたんです。

 

 

2か月後ファンクラブライブに行った時もガタブルでした…

なんとか……言葉は発声できたのですが……手足が震え…((((;゚Д゚)))))))アワワワ…ヘナチョコ…

やっぱり山根さんは、私の人生を好転させてくれた偉大な人です…

 

 

 

 

 

2位は…1995年「Born in 66」

 

「Born in 66」の前年のRACING THE MOON1994ツアーは、初めて山根さんがうちの田舎に来てくださったのですが

塾を休みたいと言えず、涙を飲んで我慢しました。

もう…いまだにあの喪失感を明確に覚えているのですが…

塾が終わった後、ホールの方角を向いて

「この何キロも先で山根さんが今歌っている…」

と立ち尽くしていました。

 

 

なので、Born in 66ライブは

「憧れのお兄さんにようやく会えた…!」

という感動がものすごかったんです。

 

ライブは冬でしたが、チケットを取ったのは夏。方向音痴なので、夏休みに会場の下見までしました。

あまりにも嬉しくて、「お誕生日おめでとうございます。受験生ですがこの冬のライブ絶対行きます」とファンレターを送りました。

 

中学生。コンサートなんて、初めてでした。

しかも、最も敬愛するアーティストです。

風邪をひきませんように、絶対に行けますように、と願いながら当日を迎え

ドキドキ、ドキドキしながら開場を待ちました。

 

 

Loverのイントロが始まって、ようやく現れたお兄さん。

いつもテレビの中か音楽雑誌でしか見ることができない人なのに、

今日は数メートル先にいる…

本当に、とてもとても嬉しくて…

 

 

初めて「生」で見る山根さんは、

テレビの中よりも雑誌の中よりもずっとずっとカッコよくて

「STAY WITH ME」で失神しそうなくらいクラっときてしまいました(カッコよすぎて手拍子が合わない!!)。

(この文章をPCで打ちながら当時を思い返し涙ぐむ(/ω\))

 

会える回数が増えた大学生以降に体験したライブよりも

やっぱり

「会えない、会えない…ようやく会えた!」と感じた

最初に体験した1995年のBorn in 66が、25年前のことにも関わらず、今も…とても心に残っています。

 

 

私は関西方面の大学に進学(1999年4月)したので、それ以降は会える回数は増えました。

通常のライブ以外にも、ファンクラブイベントなどがあり

無料のリリースイベントなんかは彼氏を誘って行ったりしていました。

 

 

私が初めて握手してお話していただいたのも、大学生の時です。

そうですね、初めて握手できたこのライブも、心に残っています。

これが思い出のあるライブ第4位かな。(ライブの思い出と言うより、その後の思い出なのですが…)

2002年、四ツ橋の厚生年金会館でのライブの後、長蛇の列で…

 

 

やっと握手できる…嘘…!嬉しい…!

 

1999年に田舎を出て、隣の関西にやってきましたが、

私は、昼間に大学と、ナイトスクールとのダブルスクールをしていたため、ナイトスクールの学費のためのバイトがなかなかきつく、

頻繁にライブに行けていたわけではありませんでした。

ハワイ・バリ・ロサンゼルス…各地で開催されるMOTHERツアーは、いつもFC会報で見て「いいなぁ…」と羨ましく言っている学生でした。

そんな貧乏学生の自分には、握手できる機会はなかなか訪れず…

 

でも、何年も想っていたんです。毎日CDを聴いて支えてもらっていました。

 

 

緊張のあまり、足はガクガク震え、心臓は破裂しそうで…

あまりの緊張に、一言も言葉を発することができませんでした。

その時にかけて下さった言葉も明確に覚えていません。

何せ、13歳の自分に夢を与えてくれたアーティストです。

 

四ツ橋からの帰途…嬉しさで涙ぐんで、電車の中でずっとドキドキしていたことを覚えています。懐かしいなぁ…。

 

 

 

そのライブの後日…MOTHERから一通のハガキが届きました。

 

訃報のハガキでした。

 

学生アパートの郵便ポストを開け、そのハガキを手にし

 

「えっ…」

 

と口を覆い、書かれている日付に目を疑いました。

 

 

あの情熱的でいつもと変わりなかったライブ、

 

お父様のご逝去の苦しみに耐え、開催されていたの…!?

 

ポストの前でしばらく立ったままだったことを覚えています。

 

 

何を私、握手で浮かれていたんだろう…

 

お父様が亡くなられた直後だったのに、

 

いつもと変わらない、情熱的なライブを開催してくださったんだ…

 

しばらくそのハガキを握りしめていました…

 

 

 

後にこの日のことを、去年かな、ラジオ番組内で語ってくださったのですが

リハーサル時に「be-ALIVE」の

そんな親父の背中を見て育った

の部分は声が出なかった、とおっしゃっていました。

そのことを聴いて、そうだあの時…と、このライブのことを思い出していました…。

 

 

悲しみを抱えながら、いつもと変わらない情熱的なステージを開催してくれた…

どうしてそんなにも、強くいられるんだろう。

 

その日は夕方のバイトもナイトスクールも無く、ハガキを勉強デスクに置いて、狭い学生アパートで山根さんのことを色々と想っていました。

 

 

いつもこの人は、私たちに元気をくれる…

抱えきれぬ荷物なら 二人一緒に歩こう

そう我々に歌うくせに、いつも一人で抱えている気がする

最近思うのは、そんなことです。

 

 

 

 

 

元気をくれ、勇気をくれ、夢をくれたお兄さん。

山根さんの楽曲に出会えなければ、単なる楽しい学生生活だったかもしれません。

両親が私に希望していたのは、地元の国立大学を出て、地味に市役所職員や美術館学芸員、教師など「公務員」として働くことでした。

 

私は大人しく目立たない地味な人間なので、もしかしたら田舎が合っていたのかもしれません。

 

 

しかし、私はGood-bye Love Road を1993年12月に聴いてから、

「田舎を出てビッグになるんや!」という想いを抱いてしまったのです。

 

「東京ラブストーリー」「あすなろ白書」「愛していると言ってくれ」

小学校高学年~中学生の当時、私は多くのドラマに傾倒していました。

Good-bye Love Road の主人公たちが私の脳内で勝手にストーリーを展開したように、

こんなストーリーを描いて、私も多くの人に感動を与えたい。

「向こうで働くんじゃ、もう田畑しかない田舎には帰らんけん」と言って故郷を離れる決心をしました。

 

そして、目標に向かって頑張っていた大学時代…

将来に対し前向きになれ、とても充実していたと思います。

朝にバイトをして、2限目から大学に行って、夜はナイトスクール…

土日はボーイフレンドとデートに行き、ナイトスクールのない夜は友人と夢を語り合い…

 

毎日、毎日、前向きな楽曲を小さな学生アパートで聴き、移動の時間に聴き、大きな未来を想う心を支えてもらっていました。

山根さんの楽曲はまさに、私の青春時代を彩り、支えてくれていたんです。

感謝しかありません。

 

 

 

 

 

私の中の現在の第一位…

2019年「FIRE BALL 817」

 

もう…待ちに待っていたんです。

私にとって10数年ぶりに体験する正式なライブ。1か月前の西宮ガーデンズでの30分のミニライブで昔の感覚が戻り、とてもとても楽しみにしていました。

子供たち…熱が出ませんように。無事にライブに行けますように。心の中で毎日祈っていました。

チケットを取ったのはファンクラブに入る1か月ほど前(6月)。

娘の入院中でした。

 

STARTING OVER Y2 MEETS ROCK放送内で、Sコードが発表され予約ができる…ということだったので

ああ、明日予約できる!楽しみだな!と思っていた木曜の晩に

娘が救急車で運ばれてしまいました。

 

 

2度目の入院です。

 

後遺症は残らないか…

この子の人生に何ということをしてしまったの私は…

もっと早くに気づいていれば…

坊くんをどうしよう…主人に仕事をなんとかしてもらわないと…

 

頭がグシャグシャになり、母親としての自信を無くし、自責の念に苛まれ…管につながれた娘を見つめながらの入院生活が始まりました。

 

翌日の金曜日、少し容体が落ち着き、18時過ぎに娘は寝始めました。

 

 

「Sコード…」

 

「ライブ…」

 

娘のことで頭がいっぱいだったにも関わらず、

容体が落ち着いてスヤスヤ寝始めたため、FIRE BALLのチケット予約のことを思い出しました。

スマホにradikoアプリをインストールし(それまでは土曜日の朝に朝食をとりながらPCのradikoでラジオを聴いていました)、

19時すぎに流れてきたSコードで予約を取りました。

恐らく…この時に娘が寝なかったら、2階席だったかもしれません。

 

 

入院生活は大変なものでした。毎日の回診で聴く娘の回復度…息子は幼稚園に通い始めてまだ2か月…深夜にする自分の仕事…

何より娘に後遺症が出ないかが気になっていました。

 

 

翌日かな…また…娘が昼寝したときに

「少し…心を休めよう。山根さんの曲を聴こう」と

いつもマザーズバッグに入れているウォークマンを取り出しました。

 

再生ボタンを押すと、流れてきたのは「Yellを君に(DESTINY)」

1994年に自分を救ってくれた曲です。

 

偶然にもそのとき最も自分に必要だった曲が流れ…疲労と不安が蓄積した中、こらえていたものが溢れてきてしまって

優しい声がイヤホンから流れている間

「あぁ…私は25年たってもこの曲に助けられているんだ…」とボロボロと泣きながら実感しました。

 

同時に…「CLOUD 9」にも励まされました。

娘の寝顔を見ながら…

涙がこぼれるときには、この歌を歌おう。それでダメならママの笑顔全部あげる」と…

娘への応援歌として、聴いていました。

 

 

6月にそういう体験をしたので、どうしても、ライブで聴きたかったんです。

どうしても、山根さんに会いたくて会いたくて…ライブに行きたかったんです。

 

FIRE BALL当日。前も横も男性でちょっと圧迫感。

前の席は40代くらいの男性が奥様と、右の席は私と同じくらいの30代後半の男性がお一人で参加されていました。

 

数列前では男性3人が談笑しており、14年ぶりにライブに来た私には、会場内に男性の数がとても多いことがとてもとても驚きでした。

(昨年末のクリスマスライブでは、斜め前、右、後ろが男性。3方向囲まれてさらなる圧迫感)

 

そして…懐かしさで泣いちゃうんじゃないかと思っていたライブは、全くそんなことなく

 

「She’s My Lady」から始まりジェットコースターのようにパフォームされる楽曲たち、ノリノリの観客たちの勢いに圧倒され

 

とてもとても楽しい時間でした。

 

そして最後の最後で心から感動し、号泣し、その後数日間はFIRE BALLロスになっていました。

 

なにせ、スーパーで魚の切り身を見ながら、イヤホンから流れる「栄光の季節」にウルウルしていたくらいです。

 

「坊くんに骨取りサバを…骨取りサバを…ウゥゥッ」(←すごい変な人)

 

若い頃から何度も山根さんのライブに参加させていただいていましたが、

 

こんなに感動したのは…初めてでした。

 

しばらく離れていたから感じたのかもしれませんが…

 

20代、30代のお若い頃よりも…ステージパフォーマンスのレベルや、楽曲から受け取るメッセージ力が

 

とてもパワーアップしていたんです。

 

 

 

 

 

 

 

目標額達成しましたね、おめでとうございます!!

もし来年にリベンジFIRE BALLが開催できるのなら

きっと…そのライブが、人生で最も想い出に残るライブになるんじゃないかな…。

 

そうであってほしい…

 

そうでありたい…

 

Let’s all take a moment to appreciate Y2 singing on the stage. He always puts a smile on my face. Thank you for what he does.
 
He is what is keeping me going through all the sadness during COVID-19.
His songs help me keep at least some sanity.
 
As much horribleness as COVID-19 has been… it brought me to him, and for that, I am forever grateful.